ジタバタのかなた

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《愚見数則》16 知らないと大損する夏目漱石の処世訓

愚見数則の第16回です。

 

原文 

(あざむ)かれて悪事(あくじ)をなす(なか)れ、その()を示す、()わされて不善(ふぜん)を行う勿れ、その(ろう)を証す。

黙々(もくもく)たるが(ゆえ)に、訥弁(とつべん)と思ふ勿れ、拱手(きょうしゅ)するが故に、両腕なしと思ふ勿れ、笑ふが故に、癇癪(かんしゃく)なしと思ふ勿れ、名聞(めいぶん)頓着(とんちゃく)せざるが故に、(つんぼ)と思ふ勿れ、食を(えら)ばざるが故に、口なしと思ふ勿れ、怒るが故に、忍耐なしと思ふなかれ。

 

勝手に現代文

だまされまどわされて悪い事をするな。それは愚かであることを示すことだ。接待を受けて不善を行うな。それは卑しさを証明することだ。

黙々としているからといって,しゃべるのが下手だと思うな。腕組みをしているからといって,両腕がないのだと思うな。世間の評判を意に介さないからといって,耳が聞こえないと思うな。食べるものを選ばないからといって,口がないと思うな、怒るからといって,忍耐がないと思うな。

 

「欺かれて悪事をなす勿れ」

人が複数集合して組織になった途端に駆け引きがはじまりますから,人をあざむいて悪事に手を染めさせたり,接待で囲い込もうとするというようなことはいつの時代にもあることだったのですね。

 

悪いことをしてるわけではありませんが,最近はカードのポイントを溜める努力をしている自分に気づいて 「あっ 囲い込まれてる・・・」と思うことなどもしばしばあります。

春のパンまつりで貰わなくても,いまどき白いきれいなお皿はどこでも安く売られているのに乗せられてしまうのも 「あっ・・・」 のくくりです。

 

いま流行りの行動経済学の本によると,

『人には「自分は自律的にそうすることに決めて継続してます」 というようなことにすると,「実はもうね,やらないとちょっと落ち着かないレベルなんだ」というような気分に縛られる傾向がある』

のだそうで,これを ”一貫性の原理” と呼んでました。

ポイントやシールをつい集めてしまうのも,自分でつくった一貫性の魔力に縛られているのでしょうね。

 

顧客を逃がしたくない側は,同業他社に持っていかれないように,ありとあらゆる ”お得感” の蜜をまき散らして囲い込もうとします。

 

ポイントをコチコチ溜めてるヤツが言うのもなんですが,加入していると牛丼やバーガーがただで食べられるというのもありましたね。

あまりにもダイレクトな感じでしたが,それでも一定の効果があるようです。

 

「牛丼一杯で ”一生ついて行きます” 感をかもしてしまっていいのかぁ」というのが,今の時代の注意のしどころかもしれません。

キビ団子一個で鬼が島についていって命を賭して戦う選択をしてしまう無謀。

そのうえ,脚光は主役の桃太郎ばかりなのに・・・。

 

「その ”お得” は顧客を囲い込む手段なんじゃないのぉ」とか 「それに乗っかると後にどれほど不利益をこうむるんだよぅ」  というような意地悪さを常時持っておくというようなことも,この時代では大事かもです。無邪気ではやられるばかりです。

 

 

「黙々たるが故に、訥弁と思ふこと勿れ」

組織内で人を評価するときに「彼は怠慢で投げやりな仕事ぶり」というようなレッテルがつけられがちです。

この一節はそんな一元的な見方で人を評価をすることを批判しています。

 

実際には,そんな安易なレッテルごときは,上司や同僚,担当する仕事との相性など,ちょっとしたきっかけでグルングルン変化します。

日頃は寡黙なのに酒のちからで豹変する人も見てきました。抑え込んでいた不平不満が吹き出すんでしょうね。

 

表面にあらわれないいろんな性質があることは自分に照らしてもわかるのですが,ついこうしたレッテルを評価の基準にしてしまいがちです。

特に,仕事上の組織運営では,人の評価に関する結論めいたものを出す必要が多数生じます。

なんの準備もないのに潜在的で複雑な性質をしっかり見極めたうえで,系統立てて過不足なく評価するなんて曲芸は到底できません。

 

 

とはいえ,今見えている面だけで評価するというのでは,見せかたを気にする人ばかりが有利になってしまうかもしれません。

見えにくいけれども大切なところを掘り起こしていかないと,真に有為な人材が輝くことはできないでしょう。

 

そうすると,場合によっては信頼できる他者の評価なども踏まえることが必要になります。

自分の考えと大きく異なる場合は決して心地よいものではありませんが,そのギャップの理由を知ることこそが大切ですので・・・。

 

組織をうまく運営するために他者を評価するのは,まさしく 「胸裏の利刀をふるって真二つに割って知る」 ようなことですね。

おろそかにできることではありません。

 

この一節は,そんなことを考えるきっかけになりました。