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《愚見数則》17 知らないと大損する夏目漱石の処世訓

愚見数則の第17回です。

いよいよ終盤にさしかかりました。

この回を含め残すところは2回です。

 

原文

人をくっせんとほっせば、みずから屈せよ、人を殺さんと欲せば、先づ自ら死すべし、人をあなどるは、自ら侮る所以ゆえんなり、人をやぶらんとするは、自ら敗る所以なり、むる時は、韋駄天いだてんごとくなるべく、守るときは、不動ふどうの如くせよ。

 

勝手に現代文

人に頭を下げさせたいと思うなら,まず自分が頭を下げよ。人を殺したいと思うなら,まず自分が死ぬべきだ。人をあなどるのは自分をあなどっているからである。人に勝とうとするのは自分が敗けているからだ。攻めるときは韋駄天(足が速い仏)のように,守るときは不動明王(岩の上に座って火炎に包まれた姿の仏)のようにせよ。

 

「人を屈さんと欲せば、先ず自ら屈せよ」

自分の感情を他者の行動に反映させることの不毛さについて書いています。

 

言うことをきかせるのに物理力だけを遣うと暴力的になってしまいがちです。

直截的な力ではなく,人のうわさ,心理的な圧力,法律の力なんかを遣って言うことを聞かせようとするのも,個人レベルだといじめやハラスメントなどに直結する陰湿なことになってしまいます。

 

人に謝らせるために自分が謝るというのも,手段としては成立するかもしれませんが,その行動のトリガーになっている ”腹立ち” は全く解決しませんし,増幅してしまうことだってあるでしょう。

そんなことができるほど達観してるなら,そもそも腹も立たないというようなパラドキシカルなことになってしまいます。

 

そんなこんなで,この一連の文は,

「そもそも他人の行動に何を期待しているんだよ,そんなの無理に決まっているじゃないの。変えるんなら自分自身の心持ちのほうが効率的でしょ」

と諭されているように思えました。

 

 

「人を侮るは、自ら侮る所以なり」

は,孟子のなかにある,自分で自分を侮ることの悪影響を指摘する一節,

「人は必ず自ら侮りて、然る後に人之を侮る」

(人が侮られることになる前には,まず必ずその人が自分自身を侮るというプロセスを経る)

がリンクしているのかもしれません。

 

第15回で,論語の一節

「君子は諸(いろいろなこと)を己に求め(内省し),小人は諸を人に求む(周囲の人のせいにする)」

を引用しました。

 

全体を通して愚見数則では,生徒に対して ”君子” としての振る舞いを勧めていますので,この回でも

「他者との関係において ”君子” であるためには,まず自省することが大事だな」

と言っているように感じました。

 

 

”韋駄天” はちかごろタイムリーでしたね。

師匠のお釈迦様が亡くなった直後に鬼に歯を盗まれたのを,弟子の韋駄天が猛ダッシュで取り返したということで ”韋駄天=足が速い” になったとチコちゃんから教えてもらいました。

 

不動明王” も火に包まれて怒った顔をしてるので ”戦い” のイメージがありましたが,コチコチ調べてみたところ,もともと悪魔や煩悩を抑えあらゆる災厄から守ってくれる守護の仏様であるとわかりました。

この文から派生して学習いたしました。

 

次回の第18回でとうとうこの愚見数則のシリーズは終わりを迎えます。