《愚見数則》18(最終回) 知らないと大損する夏目漱石の処世訓
愚見数則の第18回,とうとう最終回です。
原文
右の
勝手に現代文
右のことは,ただ思い出したままに書いたものだ。長く書けばきりがないから略す。必ずしも諸君に一読せよとは言わない。まして両手で捧げ持って胸につけて離さないような有難がりかたをしてほしいとは言わない。諸君はいままだ若くて元気一杯だ。人生の中でもっとも愉快な時期に遭遇している。私のような者の言うことに,耳を傾けている暇はない。しかし数年の後に校舎の生活をやめて,突然に俗世間に出たときに,首をめぐらしてすこし考えてみるならば,もしかするともっともだと思うこともあるだろう。しかしそれも保証はしない。
最後の回を迎えました。
少しなごり惜しい心もちです。
書かれた文章が縦書きだったので,冒頭は 「右の」となっています。
”条々” には ”おちおち” という読み方もあるそうなので,ルビはそのようにしてみました。
"じょうじょう" なのかもしれません。
"拳々服膺" は,”拳々” が ”両手で捧げ持つ様子" ,”膺” が ”胸” で ”服” が ”ひっつける様子” ですので,”両手で捧げ持って胸に付ける” というような,うやうやしく大事に扱う仕草を指す言葉でした。
「いま君らは楽しいばかりで聞く耳を持たないだろうが,急に世間に出た戸惑ったときに,そういえば先生が言ってたなぁと思うこともあるかもよ。保証はしないけどね」と優しくおちゃめに説いてくれています。
僕はいい年になってからこの文章に出会って,いろいろと思うことが山盛りでした。
尋常中学校の生徒の年齢層は12歳から17歳だったようですから,もし僕が教え子としてその時代に居たとしても,その年代にこの文に出会っても気に留めなかったでしょう。
この世のすべてとは言いませんが,ジタバタしながら世間をわたっていく,つまりおとなになる過程を経てわかってくることもそこそこあります。
ノスタルジーとおっしゃいますなかれ,いまでもちゃんと実用しているんですから。
夏目漱石が書いたものだからいまも残っているのだと言ってしまえばそれまでですが,さすが後に文豪と称される人が書いたものは,思いつくままに書いたものでもパワーが宿っている感じがいたしました。
実際に,後世に生きる夏目漱石と縁もゆかりもなかった僕が,その文章のちからにおおいに助けてもらったわけですし・・・。
このたび,ブログ立ち上げ記念にと思い立って,自分自身がしんどくなった時にこの文を読み返して助けられたことなども書きつけてみました。
原文にこそ味があることも承知しながら,僕にはとっつきにくいところもあったので,無謀にも勝手にルビをふってみたり,現代文への置き換えにもチャレンジしてみました。
その途上で,おまけのご褒美として,孫子,老子,孟子や論語などの知識も,ネット上にいらっしゃる達人方のお知恵などを拝借し,その手の本を買って読む機会も得ながら,少しですが内在化することができました。
いま,いろいろ吹っ切れずにつらくなっている人や少し立ち止まって休憩したくなった人の目にとまって,いろいろ開き直るための題材が提供できたらいいなぁと思っています。
このあと2回に亘り,原文と現代文をそれぞれまとめて掲載しておきたいと思います。