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《愚見数則》 勝手に現代文をまとめてみました

《愚見数則》勝手に現代文

夏目漱石夏目金之助)が愛媛県尋常中学校の英語教員として赴任していた満28歳のときに,  同校の校友会誌 ”保恵会雑誌”(第47号:明治28年11月25日/明治26年創刊)に発表した文章である ”愚見数則” を勝手に現代文に置き換えてみたものです。

 

理事が来て何か論説を書けと言う。私はこのごろ考えが底をつき,生徒諸君に示すべき事はない。しかし,是非に書けというならば仕方がない。何か書かねばならない。ただしお世辞は嫌いだ。時々は気に入らない事もあるだろう。また,思いだす事をそのまま書き連ねるので,箇条書きのようで少しも面白くないに違いない。ただし文章は飴細工のようなものだ。のばせばいくらでものびる。そのかわりに本当の中身は減るものと知る必要がある。

 

昔の書生は学問のため故郷を離れて四方に旅を重ね,この人ならばと思う先生のところに落着く。それゆえに先生への尊敬は父や兄に対するよりも強かった。先生もまた,弟子に対して本当の子供のようであった。こうでなくては本当の教育という事はできない。いやになればすぐに宿を移す,このような生徒に対する校長は,旅館の主人のようなもので,教師は旅館の従業員で下働きである。主人の校長ですら,時にはお客の機嫌をとらねばならないのだから,従業員や下働きは言うに及ばない。教員の人徳などをもって生徒の人格を形成するどころか,解雇されないだけで幸せと思うくらいだ。生徒が増長し,教員の価値が下がるのは当然のことだ。

勉強しなければろくなものにはならないと覚悟しなければならない。私自身が勉強をせず,しかも,諸君に対面するごとに勉強せよ勉強せよと言う。諸君が私のような愚かものになることを恐れているからだ。戒めるべき手本は近くにあるものだ。勉強しなさい。それに勉めなさい。

私は教育者には適さない。教育家の資格を有していないからである。その不適当である男が,生活のための金銭を得ることを求めて,一番得やすいものは,教師の地位である。これはいまの日本に,真の教育家がいないことを示すと同時に,いまの学生には,にせものの教育家でもお茶を濁して教授することができるという悲しむべき事実を示すものである。世間の熱心であろう教育家のなかにも,私と同感の者がたくさんいるはずだ。真正なる教育家を作り出して,これらのにせものを追い出すのは,国家の責任である。立派な生徒となって,このような先生には到底教師はできないと悟らせるのは,諸君の責任である。私が教育の場から追い出されるときは,日本の教育が隆盛になった時だと思え。

月給の高低で教師の価値を定めるものではない。月給は運不運で下がることも上がることもあるものだ。関所の番や拍子木を打って見回りをすることを仕事にするような身分の低い役人が,たまに,もしかすると国政の最高幹部にまさる能力や人格を有する。これらの事は小学校の教科書を読んでもわかる。ただ,わかっただけで実地に応用しなければ,すべての学問はいたずらな骨折り仕事である。昼寝をしている方がよい。

教師は必ず生徒より偉いものではない。時には間違いを教えることがないとも保証はできない。だから生徒はどこまでも教師の言うことに従うべきであるとは言わない。飲み込めない事は抗弁して当然だ。ただし自分の間違いを知ったならば,即座に悔い改め恐縮するべきである。この間に少しの言い訳さえいれる余地はない。おのれの非を謝る勇気は,これを完遂しようとする勇気の百倍にも相当する。

狐疑するな。躊躇するな。まっしぐらに進め。ひとたび卑怯や未練の癖をつければ簡単に取り去ることができない。墨をすって一方にかたよってしまう時は,なかなか平らにはならないものだ。ものごとは最初が肝要であると心得なさい。

善人ばかりだと思うな。腹の立つことが多い。悪人だけしかいないと決めつけるな。心が穏やかになることがない。

人を崇拝するな。人を軽蔑するな。生まれる前や死んだあとのことを考えよ。

人を観るならばその奥底を観なさい。それができないならば手をくだしてはいけない。すいかの善悪は叩いて見分ける。人の優劣は胸の中にあるよく切れる刀で真っ二つに割って知れ。叩いたくらいで知ることができると思うととんだ怪我をする。

自分たちが多勢であることを当てにして一人を馬鹿にするな。自分が無気力であることを誰かれなく言い広めるのと同じことだ。このような者は人間のかすだ。豆腐のかすは馬が喰う。人間のかすは蝦夷松前の果てといった辺境へ行っても売れるものではない。

自己の能力や価値を過信するときは他人がこれを破り,自信が薄いときは自分でそれを破ってしまう。むしろ人に破られることがあっても,自分で破ることのないようにしなさい。

嫌味を取り去れ。知らないことを知ったふりをしたり,人の揚げ足を取ったり,あざけったりもてあそんだり、冷淡な態度で批評したりするものは,嫌味が取れないからである。人間自身のみでなく,詩歌や俳諧ともに,嫌味のあるものに美しいものはない。

教師に叱られたといって、おのれの値打ちが下がったと思うことはない。また,ほめられたといって値打ちが上がったと得意になるな。鶴は飛んでも寝ても鶴だ。豚はほえてもうなっても豚だ。人の悪口や褒め言葉で変化するものは相場である。値打ちではない。相場の高下を目的として世渡りする者を才子という。値打ちを標準として事を行う者を君子という。それゆえに,才子には高位高官になる者が多く,君子はひどく落ちぶれても気にしない。

なにもないときは処女のようにおとなしく弱々しく,危機の時は逃げるウサギのようにすばやく動け。座る時は大きな岩のようになるのが良い。ただし,処女もときには悪い評判が立ち,すばしこいウサギもまれには猟師のおみやげになり,大磐石も地震のときには転がることがあると知っておけ。

浅知恵を用いるな。自分に利益をもたらすために策略を用いるな。二点の間の最短距離は直線であると知れ。

策略を用いなければならない場合には,自分より馬鹿な者に施せ。利益や欲望に迷う者に施せ。悪口や褒め言葉で動かされる者に施せ。情にもろい者に施せ。お祈りや呪いでも山が動いた例はない。一人前の人間がキツネに化かされる事も理学書で見たことはない。

人を観なさい。金時計を観てはいけない。洋服を観てはいけない。泥棒は我々より立派な衣装を身にまとっているものだ。

威張るな。気に入られようとするな。腕っぷしの弱い者は,用心のために長い棒を持ちたがり,借金のある者は酒を勧めて貸し主をごまかすことに努める。みな自分に弱みがあるからだ。人徳がある者は,威張らなくても人は敬い,気に入られようとしなくても人が愛す。太鼓が鳴るのは中身がないからだ。女のお世辞が良いのは腕力がないからだ。

みだりに人を批評するな。そのような人だと心の中で思っていればそれで済む。悪い評判を例にしてみなさい。口から出した言葉を再び口にいれようとしても、その効果はない。まして,又聞きや噂などという薄弱な土台の上に設けられた批評など論外である。学問上のことについては無闇に議論しない。人の攻撃にあって,破れやほころびが表面化するのを恐れるからである。人の身の上について,尾ひれをつけて誇張して触れ歩くこと,これは他人を雇って間接的に人を殴ることに異ならない。頼まれたことなら良し悪しはない。

頼まれもしないのに,このような事をするのはものずき中のものずきというものだ。

馬鹿は百人集まっても馬鹿だ。味方が大勢いるから自分のほうに知恵があると思うのは考え違いだ。牛は牛伴れ,馬は馬連れと言って同類は自然に集まるものだ。味方が多いのは時としてそれが馬鹿の集まりであることの証明と同義のこともある。これほど皮肉で滑稽なことはない。

何事かを成し遂げようとするならば,時と場合と相手と,この三者を見極める必要がある。そのうち一つが欠けても無論のこと,その百分の一が欠けても成功はおぼつかない。ただし,何かをするにあたって,必ず成功を目的として計画すべきものと思ってはいけない。成功を目的として何事かを成し遂げようとするのは,月給を取るために学問するのと同じことだ。

人が自分を乗せようとするならば,差し支えない限りは乗せられていればよい。いざという時に強く投げ出すのがよい。あえて復讐というのではない。世のため人のためだ。器量の小さい人は利益を基準とする。自分の損になることだとわかれば,少しは悪事を働かないようになる。

多くを語る者は真理を知らない。知っている者は語らない。余計で不確実な事をべらべらと言い連ねるほど見苦しいことはない。まして毒舌など論外である。なにごとも控えめにせよ。慎み深く上品にしなさい。むやみに遠慮せよというのではない。ひとことであっても時には千金の価値がある。膨大な情報が書かれた書物であってもくだらない事ばかりならば便所の落とし紙と同じだ。

損得と善悪を混同するな。真率(まじめで飾り気がない)と浮跳(軽々しくふらついている)とを混同するな。温厚と怯懦(意気地なし)とを混同するな。磊落(度量が広く細かい事にこだわらない)と粗暴とを混同するな。臨機応変に種々の性質を見抜け。性質が一つあって二つない者は天性の才能に恵まれているとはいえない。

世の中に悪人がいる以上は,喧嘩せずに済むということはないだろう。社会が完全にならない間は,不平や騒動をなくすのは難しい。学校も生徒が騒動を起こすからこそ徐々に改良されるのだ。無事平穏はおめでたいことに違いないが,時として心配すべき現象である。このように言ったからとて,決して諸君をそそのかしているのではない。無闇に乱暴されてはとても困る。

天命をあまんじて受け入れるものは高潔な人格者である。天命をひっくり返すものは常識外れに度胸の据わった人である。天命をうらむものは男ではない。天命を免れようとするものは器の小さい者である。

理想を高くせよ。無理に野心を大きくさせろとは言わない。理想がないものの言うことや動作を見てみなさい,極めてみにくく,いやしいものだ。理想が低いものの立ち居振る舞いや身なりを観察してみなさい,美しいところはない。理想は本質を見据えた判断力にもとづく。その判断力は学問をすることによって生まれる。学問をして人間がすぐれたものにならないならば,初めから無学でいる方がよい。

だまされまどわされて悪い事をするな。それは愚かであることを示すことだ。接待を受けて不善を行うな。それは卑しさを証明することだ。

黙々としているからといって,しゃべるのが下手だと思うな。腕組みをしているからといって,両腕がないのだと思うな。世間の評判を意に介さないからといって,耳が聞こえないと思うな。食べるものを選ばないからといって,口がないと思うな、怒るからといって,忍耐がないと思うな。

人に頭を下げさせたいと思うなら,まず自分が頭を下げよ。人を殺したいと思うなら,まず自分が死ぬべきだ。人をあなどるのは自分をあなどっているからである。人に勝とうとするのは自分が敗けているからだ。攻めるときは韋駄天(足が速い仏)のように,守るときは不動明王(岩の上に座って火炎に包まれた姿の仏)のようにせよ。

右のことは,ただ思い出したままに書いたものだ。長く書けばきりがないから略す。必ずしも諸君に一読せよとは言わない。まして両手で捧げ持って胸につけて離さないような有難がりかたをしてほしいとは言わない。諸君はいままだ若くて元気一杯だ。人生の中でもっとも愉快な時期に遭遇している。私のような者の言うことに,耳を傾けている暇はない。しかし数年の後に校舎の生活をやめて,突然に俗世間に出たときに,首をめぐらしてすこし考えてみるならば,もしかするともっともだと思うこともあるだろう。しかしそれも保証はしない。