ジタバタのかなた

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《愚見数則》5 知らないと大損する夏目漱石の処世訓

愚見数則の第5回です。

 

ここからはとてもリズム感のよいフレーズが続きます。

 

原文

狐疑こぎするなかれ、躊躇ちゅうちょする勿れ、驀地ばくちに進め、一度ひとた卑怯未練ひきょうみれんの癖をつくれば容易に去り難し、墨をして一方にへんする時は、中々なかなかたいらにならぬものなり、物は最初が肝要かんようと心得よ。

善人許ぜんにんばかりと思ふなかれ、腹の立つ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし。

人を崇拝すうはいする勿れ、人を軽蔑けいべつする勿れ、生れぬ先を思へ、死んだ後を考へよ。

人を其肺肝そのはいかんを見よ、それが出来ずば手を下す事勿れ、水瓜すいかの善悪は叩いて知る、人の高下こうげ胸裏きょうり利刀りとうふるつて真二まふたつに割つて知れ、叩いた位で知れると思ふと、飛んだ怪我をする。

 

勝手に現代文

狐疑するな。躊躇するな。まっしぐらに進め。ひとたび卑怯や未練の癖をつければ簡単に取り去ることができない。墨をすって一方にかたよってしまう時は,なかなか平らにはならないものだ。ものごとは最初が肝要であると心得なさい。

善人ばかりだと思うな。腹の立つことが多い。悪人だけしかいないと決めつけるな。心が穏やかになることがない。

人を崇拝するな。人を軽蔑するな。生まれる前や死んだあとのことを考えよ。

人を観るならばその奥底を観なさい。それができないならば手をくだしてはいけない。すいかの善悪は叩いて見分ける。人の優劣は胸の中にあるよく切れる刀で真っ二つに割って知れ。叩いたくらいで知ることができると思うととんだ怪我をする。

 

”狐疑” とはキツネのような疑い深さをもつことです。

”驀地” を江戸時代以前は”ましくら” と読んだようです。

 

「一度卑怯未練の癖をつくれば」 の部分はとても身につまされます。

そうだよなぁ,潔くありたいよなぁと思いながらも,次の一節のように,ついつい周りを自分本位の善悪二律に分けて腹を立てみたり・・・の繰り返しです。

 

 

 「生れぬ先を思へ、死んだ後を考へよ」

については,どんなことを言っているのかピンとこなかったので少し考えてみました。 

 

その前後の文節で「人を」としているので,これも自分が接する人のことを言っているのだと思います。 ”生れぬ先” をキーワードにして調べてみたところ,この文を書いた同じころに漱石

「元日に生れぬ先の親恋し」

という句を残していました。

 

「今現在見えているその人の外見や言動や所作などミクロなことにとらわれずに,時間軸を広げてその人の生前の両親や死後の子供の様子などのつながりをマクロに考えてみろよ」

というようなことかと思うのです。

 

つまり,その両親の慈愛とか子供の敬慕とかそんなものもコミコミで一個の人を観るならば,おろそかにはできないでしょというような・・・。

次の「叩いた位で知れると思ふと、飛んだ怪我をする」の流れも併せて,パワハラ体罰の抑止に最適の教訓になる一文であると思います。

 

 

なお,「生れぬ先」 の検索では,一休さんが詠んだと言われる

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞かば 生れぬ先の父ぞ恋しき」

という歌もヒットしました。この歌もいろんな解釈ができそうです。

夏目漱石もこれを憶えていて引用したのかも知れません。